ガザ南部に住む37歳の主婦サマールさんは4人の子どものお母さん。
サマールさんの日記が伝えるガザの日々。

2025年11月16日(日)~11月21日(金)

2025年11月16日(日)

爆発音が聞こえない夜はありません。しかし、息子たちは週3日学校に通い、どんな困難にもめげずに生活は続いています。国連の学校は、家を失った避難民で今も溢れています。

毎日のように、家事は尽きません。肉の値段がまだ高いので、昼食にタヒニ(注1)でジャガイモを調理しました。料理は薪で焼くので疲れます。

調理用のガスボンベは、まだ少量しか入荷しておらず、充填システムも電子式なので、私の番はまだ来ていません。

(注1)タヒニ

ゴマから作る中東の伝統的な調味料。中東では人気がある。

2025年11月17日(月)

りしています。私たちが受け取る物資の量はどれも全く足りず、これほどの苦しみを味わう中で、戦争が本当に終わったとは到底思えません。

生活は戻りつつありますが、復興のペースは悲しいもので、至る所に瓦礫が散乱し、下水道は破壊されています。彼らは文字通りガザ地区を壊滅させました。

2025年11月18日(火)

市の東部で発生した建物の破壊に伴う爆発が、私の家を揺さぶり続けています。他の家々も同様に、前回の侵攻と継続的な爆撃によって文字通り倒壊寸前です。しかし、人々には他に選択肢がないので、周囲の極度の危険にもかかわらず、老朽化し​​た家に留まり、テント生活を送ることを選んでいます。

2年以上の間に積み重なった瓦礫を撤去するための建設機械や資材の搬入が制限されているので、私たちはまさに被災の状況を目の当たりにしています。私の地域では瓦礫は依然として積み重なっており、下水道網の機能不全が続いています。そのため、自治体は瓦礫の下にある排水網の修復を滞らせています。

2025年11月19日(水)

いつものように夜明けに目覚ましが鳴りました。しかし、それは普通の目覚まし時計ではなく、激しい爆発音でした。本当に戦争が終わったのかどうか、私には分かりません。

早朝は寒いにもかかわらず、朝食のお茶を淹れるためにバルコニーに出て薪をくべなければなりませんでした。その後、家事を再開しました。娘の習い事の手伝いや、読み書きの手伝いも含まれていました。彼女はまだ幼いので、多くのケアが必要です。

今日は特別な日です。7ヶ月以上も保存していた鶏肉とジャガイモ、玉ねぎを調理しました。

2025年11月20日(木)

今日は気温が上がり、まるで夏のような陽気でした。しかし、昨日、継続的な攻撃によって殉教した親族の葬儀に参列した時、爆撃の熱と死はさらに強烈でした。とても悲しい日でした。戦争は、私だけでなく多くのガザの人々を、激しい精神的・肉体的疲労のために、はるかに老けて見せました。私たちの現実は、社会全体、そして特に大きな苦しみを味わってきた次世代にとって、多くの課題に満ちています。あの戦争の結果、私の子どもたちは長い間学校に通えず、困難に直面していますが、夫と私はこれらの困難を乗り越えようと努力しています。

2025年11月21日(金)

爆発、爆発、爆発、それらは決して止みません。それが私の1日の始まりです。それに加えて家事の負担があります。まず薪でお茶を沸かし、さらに労力を要する食事の準備をします。他の家事は言うまでもありません。私たちはこの不可能な生活環境の中で、可能な限り普通の生活を回復しようとしています。

私の1日は、完全に疲れ果てて終わります。


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